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天王寺・てんのうじ再発見セミナーのお知らせ

12:00

2022てんのうじ再発見セミナー
天王寺区歴史と文化

講演会のお知らせ
天王寺区役所からお声がけいただいた講演会とまち歩きのイベントのご紹介です。私は講演会の第2部に参加いたします。詳しくは下記チラシ等を御覧ください。

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日時:令和5年2月5日(日曜日)13時~16時(開場12時30分)

場所:天王寺区役所3階講堂(天王寺区真法院町20‐33)

●第1部 13時から
 演題「天王寺区・名水の痕跡を探る」
 講師 大阪城天守閣館長 宮本 裕次氏

●第2部 14時30分から
演題:「天王寺区・凸凹地形の謎を紐解く」
講師: 大阪高低差学会代表 新之介

定員:100名(申込多数の場合抽選)

申込方法
下記『オンライン申込フォーム』に記載しておりますQRコードを読み取り、申込フォームよりお手続きください。または、はがきかファックスに、代表者の氏名、住所、電話番号、参加人数(2名まで)、参加希望(講演会のみorまちあるきのみor両方)を記載のうえお申し込みください。どちらか片方のみの参加でも、
参加費は一律お一人500円になります。

申込先(はがき・FAX)
・宛先:天王寺区役所市民協働課「再発見セミナー」
・はがき:〒543-8501大阪市天王寺区真法院町20-33
・ファックス:06-6774-9692
申込締切:1月13日(金)(ハガキの場合は当日消印有効)

オンライン申込フォーム(大阪市行政オンラインシステム)
下記QRコードよりお申し込みください。(申込フォームURL別ウィンドウで開く

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↑大阪市行政オンラインシステムです。

「天王寺区広報紙」12月号の表紙はステキです!
12月1日より配布予定

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「天王寺区広報紙」12月号の表紙は、なんと国土地理院のデジタル標高地形図です。

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私が地形散歩をはじめたのもこの地形図が最初でした。上町台地の先端部の高低差がよくわかります。

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アップで見るのも楽しい。ここは茶臼山のあたり。河底池から東西に窪地が細長く続いているのがよくわかります。いわゆる和気清麻呂が開削した痕跡だと言われています。

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船場周辺も東側は少し標高が高いですよね。東横堀を開削する前は上町台地と地続きだったのでしょう。さらに時代を遡れば東横堀はラグーンがあった地形の比較的やらかい土地を削ったと思われます。

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「天王寺区広報紙」12月号の巻頭には新之介のインタビュー記事もあったりします。
天王寺区役所の他に、天王寺サービスカウンター・天王寺区民センター・クレオ大阪中央・地下鉄天王寺駅・四天王寺前夕陽ヶ丘駅・谷町九丁目駅・鶴橋駅・玉造駅・JR天王寺駅・寺田町駅・桃谷駅・鶴橋駅・玉造駅・天王寺区内の大阪信用金庫・玉造日之出通南商店街・阪急オアシス桃坂店・アプロ夕陽丘店・ライフ四天王寺店・寺田町店・清水谷店・デイリーカナート玉造店などにも置かれているようです。いい地図ですので保存版として表紙だけでも残しておく価値はあると思いますよ。





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大阪船場と上町台地北端部の地形のなりたち

01:50

大阪市文化財協会(旧称:大阪文化財研究所)の「大阪上町台地の総合的研究」で発表された古地理図を利用して上町台地北端部と船場(せんば)周辺の地形の変遷をできるだけわかりやすく解説したいと思います。地形の変遷を眺めていると船場にある「鰻谷」や「丼池(どぶいけ)」などの地名の由来が見えてくるかもしれません。

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弥生時代後期~終末期の古地理図です。
上町台地の西側に細長い砂州Aと砂州Bが堆積し、その間の窪地にラグーン(潟湖)が形成されています。砂州Aの北端には砂や礫が堆積して浜堤が形成され周囲より一段高くなっていたようです。上町台地の東側は平野川の河口に位置し砂州が形成され周辺はアシなどが生茂る低湿地帯でした。森の宮遺跡の貝塚がある辺りには縄文時代から続く集落があったようです。

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弥生時代後期~終末期の古地理図に埋没谷を重ねてみました。現在はほとんどが埋められてなくなっていますが、かつては凸凹地形が密集した場所でした。

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古墳時代後期の古地理図です。
上町台地北端部の平坦な土地に法円坂倉庫群がつくられました。ヤマト政権が中国や朝鮮半島との交流が盛んだった時代でもあるのでそれらに関わる倉庫群であったと思われます。ラグーンに港があったと考えられ荷揚げする場所がどこかにあったのでしょう。このラグーンは穏やかで港にするには最適な場所でしたが、北側が土砂などによって堰き止められた可能性が指摘されています。難波の堀江は、上町台地東側の低地の排水不良を解消するために人工的に掘られたと考えられている堀江で、侵食によって川幅が拡張された景観が描かれています。

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飛鳥〜奈良時代の古地理図です。
上町台地の北端部に難波宮が置かれました。台地上は平坦な土地が少なかったので谷が少しずつ埋められていきます。ラグーンが堰き止められて上町台地の谷筋から流れてくる水が溢れて西側に流れ出しました。そこに入江がつくられたと考えられています。道修町付近にあった入江なので道修町入江と呼びます。国際的な湾港であった難波津の場所はいまだに確定されていませんが、三津寺付近にあったという説や高麗橋付近という説が有名ですが、この古地理図では道修町入江に港湾施設があったのではという考えが盛り込まれています。この辺りの地形は、淀川と大和川からの土砂が大量に流れ込むエリアなので、難波津の場所は時代によって移動していったと考えることもできるかもしれませんね。これは新之介説です。

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中世後半の室町時代の古地理図です。
上町台地の北端部には大坂本願寺の寺内町が形成され、大川沿いには渡辺津が発展します。この地は水軍・武士団であった渡辺党の本拠地でもありました。船場の辺りは、砂州が堆積して津村や三津村の集落が形成されています。津は港を意味しますので、津村も三津村もはじまりは漁村だったのでしょう。集落の周辺は畠地だったと思われます。

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豊臣後期(1598〜1615年)の古地理図です。
上町台地北端部の谷地形は盛り土などでことごとく改変されました。惣構堀も完成した状態です。東横堀はラグーンを利用して掘られ、東側は猫間川を利用して惣構堀がつくられました。南惣構堀の東側は清水谷の自然地形を利用してつくられています。船場エリアは、北側の標高が比較的高くて安定した場所に家々が建ち並び、南側はまだ家を建てるには不向きな低湿地帯が多く残っていたと思われます。大坂の陣の後に堀川がたくさん掘られますが、それらは土地を嵩上げすることが主な目的でもありました。船場には丼池(どぶいけ)や鰻谷(うなぎだに)といった珍しい地名がありますが、その場所をプロットして過去の地形に重ねたのが次の画像です。

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丼池は難波薬師という寺の境内にあった池の名で、水が溜まりやすい窪地はラグーンの痕跡だったのかも。鰻谷は、砂州と砂州の間にできた細長い谷間がウナギのように長かったので鰻谷となったのかもしれません。三津寺は、御津(みつ)が由来で、日本書紀や万葉集にも港として御津が出てきます。大阪湾側に形成されたラグーンにできた港が難波津だったのでしょうか?北浜は大川沿いの北の浜が地名の由来で古代にできた砂州の高まり。このように地形の変遷を眺めながら地名の由来を探っていくのも面白いかもしれませんね。



古大阪湾の変遷・かつて京都盆地は湖だった? 

14:28

京都盆地は湖だったの?
それとも海だったの?


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青蓮院門跡 将軍塚青龍殿 大舞台より

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大文字山からみた京都盆地

京都の古い資料を見ていると京都盆地はかつて湖だったという記述を目にすることがあります。その湖は「旧山城湖」や「古山城湖」などと呼ばれ、『京都の歴史・第一巻』の冒頭にも京都盆地の形成についてこのようなことが書かれています。「…この盆地にはもとは古大阪湾の海水が侵入していたのが、その後における陸地の隆起や、四周の山々を刻む河川が砂礫を運搬堆積して、今日のような沖積平野を形成せしめるに至ったことは周知のごとくである。昭和十六年まで残存した旧巨椋池は、ありし日のこの京都湖盆の面影を歴史時代を通じてとどめていたものということができる。(中略)船岡山と双ヶ岡が、孤立丘陵として湖盆に島をなして浮かんでいたことが考えられる。」とあります。
この文章からも京都盆地内に海水が侵入し、その後に湖となって船岡山や双ヶ岡が島となっていたと解釈できますが、どうやら海水が侵入した後に湖になった痕跡はなく、今ではそれらは間違いだったと考えられているようです。巨椋池も山城湖の名残ではなく縄文時代にできた新しい湖だということが分かっています。ただし、ここで気になるのは京都盆地が海であったという事実。ということでそれらについて古地理図の変遷をたどっていきたいと思います。

下記の古地理図は、『大阪府史 第一巻』に記載されている図版をトレースし着彩したものです。
大阪湾および大阪平野は、ひとつの構造盆地と考えられ堆積盆地でもあります。この盆地は今から約300万年前から約120万年前にいたる180万年間もの間、湖が存在していたと考えられています。これを「古大阪湖」と呼びます。
「古大阪湖」はやがて海の侵入を受けて「古大阪湾」となります。古大阪湖・古大阪湾には、礫・砂・粘土を主とする厚い地層が形成されました。これが「大阪層群」です。
大阪層群には、海水が侵入していた時にできた何層もの「海成粘土層」が含まれています。その粘土層の分布を調べることで、いつの時代にどこまで海水が侵入していたかが分かるのです。


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今から約300万年前から250万年前の古地理図です。初期の古大阪湖の中心は、現在の淀川低地帯ではなく泉北から泉南付近にあったようです。奈良盆地にも大きな古奈良湖がありそれらはつながっていました。その場所は現在の大和川よりも南側の関屋付近と考えられており、水の流れは古奈良湖から古大阪湖へ流れていたようです。


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今から約250万年前から150万年前の古地理図です。盆地の中心が北側に移り、湖が広範囲に広がって古奈良湖と北側でもつながっています。
古地理図の解釈で注意したいのは湖や湾の範囲です。古地理図は、ある一定の時間幅をきめて、その間に湖や海になったところを表現したものです。古大阪湖後半の古地理図は250万年前〜150万年前と時間幅が100万年という大幅なものなので、その間に水面が移動するため、描かれる湖が実際に存在していたものより大きく表現されていると思われます。古地理図に表現される海や湖は、このような水面が昔あったということではなく、いわば水面の軌跡です。誤解しやすい部分なのでご注意ください。


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今から約130万年前から150万年前の第0海成粘土層の海が広がっていたころの古地理図です。この時代は京都や奈良にも海水が侵入していました。汽水域となっているのは湖だった場所に海水が侵入してきたと考えられますが、古大阪湾の場合は湖が消滅した後の盆地に、海水が侵入し河川などの淡水が混ざって汽水になったと考えられています。古奈良湾の場合は、消滅せずに湖が残っておりそこに海水が侵入してきたと考えられるそうです。ちなみにこの時代はまだ京都盆地は存在していません。低い丘陵地だったと思われます。


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今から約120万年前から100万年前の第1〜第2海成粘土層の海が広がっていたころの古地理図です。
第0海成粘土層を堆積した海が退き、次に第1海成粘土層(Ma1)の海が侵入してきます。この海はやや本格的な内湾を形成しました。古大阪湾の深さは10〜20メートルにもなったと想像できるそうです。海が退いたその後、海成粘土層の海は湖となり、今度は第2海成粘土層の海が侵入してきます。京都付近では第1海成粘土層の海は侵入せず、第2海成粘土層の海が山科や深草付近まで入っていたようです。


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今から約90万年前から50万年前の第3〜第6海成粘土層の海が広がっていたころの古地理図です。
大阪層群の海成粘土層のなかで最も立派なのが第3海成粘土層です。最も安定した内湾が形成されており、海は山地に直接接して崖を形成したようです。第3海成粘土層に匹敵するのが第6海成粘土層だといわれています。古大阪湾時代の大阪では数回の海進と海退が起こりました。海水準の変動により、湖や汽水域になることがあったにせよ、古大阪湾は静かな水盆として続いてたと考えられています。この時代に古ハリマ湾と古奈良湾が消滅しているのは、山地が隆起をはじめたことで海水が侵入できなくなったからでしょう。


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今から約35万年前の第8海成粘土層の海が広がっていたころの古地理図です。
この時代は近畿地方全般で地殻変動が激しくなり、盆地と山地との対立が拡大されるとともに、近畿地方全般が上昇したと考えられています。いわゆる「六甲変動」と呼ばれる運動です。六甲変動は約100万年前から始まったとされますが、約40万年前〜約20万年前は六甲変動最盛期で変動が最も激しく、六甲山地や生駒山地は一気に隆起しました。このときに古大阪湾は一気に縮小し古京都湾も消滅したのです。京都盆地がいまの形になったのも六甲変動によって形成されたと考えられています。その後、第10海成粘土層を堆積した海が古大阪湾最後の海であったと考えられており、20万年前よりやや新しい時期に古大阪湾は消滅してしまったのです。
20万年といってもピンときませんが、現生人類のホモ・サピエンスが誕生したのがその頃だといわれています。その頃、この辺りにはどんな生き物がいたのだろう…



講演会・新発見!東大阪の高低差を歩こう!

17:30

講演会・新発見!東大阪の高低差を歩こう!

久しぶりにリアルな講演会のお知らせです。
東大阪市の地形の魅力についてお話しさせていただきます。5月頃にフィールドワークを繰り返したので写真はたっぷりあります。東大阪市の低地はかつての河内湾、しかも瀬戸内海のドンツキ!。古代から近代までの歴史の痕跡を地形の高低差から読み解いていきます。場所は東大阪市役所22階(展望ロビー)会議室。なんとドリンク&デザート付き。私もチラシをみて驚きました。お得かも。夏の暑さから逃れるように展望ラウンジでコーヒーでも飲みに行こうかというような気楽な気分でお越しいただけると嬉しいです。

日時:2022年 8月20日(土)13:30~15:00 講演会、15:00~交流会(自由解散)
場所:東大阪市役所22階(展望ロビー)会議室

参加費:1,000円(「スカイラウンジ22」にてドリンク&デザート付き

主催:一般社団法人 東大阪ツーリズム振興機構
※コロナ感染拡大の影響で講演会を延期または中止する場合がございます。手指消毒、会場内ではマスクの着用をお願いします。

参加申し込みについて
下記、申し込みフォームからお申込みください。(定員になり次第締め切ります。)

申込開始時期:2022年8月1日 午前9時より
お申込みはコチラから↓
https://forms.gle/jVtMNzCUvP6kdCwC8

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申込開始は2022年 8月1日 午前9時より
お申込みはコチラから↓
https://forms.gle/jVtMNzCUvP6kdCwC8

主催の一般社団法人 東大阪ツーリズム振興機構のホームページはこちら

(追記)
本日8月1日午前9時より申込みを開始した「新発見!東大阪の高低差を歩こう!」の講演会ですが、正午には定員に達したようです。ありがとうございます!感謝。東大阪の魅力を地形視点でお伝えしたいと思っています。

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大文字山とホルンフェルスと桜石

00:30

大文字山とホルンフェルスと桜石


iPhone用の地形アプリ「スーパー地形」のGPSで記録した当日のルートです。右側は地質図を重ねています。ピンク色が花崗岩、グレーが混在岩、黄色がチャートです。あくまでも目安です。

(京都の地学図鑑より)
ホルンフェルス-
比叡山と大文字山は南北5〜7km、東西約5kmの花崗岩地帯で、長年の風化作用でマサ土が流され窪んだ形をしています。両側の比叡山と大文字山は泥岩質で花崗岩が約9800万年前に貫入したことで熱変性作用を受けて境界付近はホルンフェルスといわれる熱変成岩で構成されているのです。熱変成岩は硬くて風化しにくく山頂として残っているわけです。

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京都五山送り火で有名な東山の大文字です。あの上まで行きますよ

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正面は銀閣寺の参道、右は哲学の道です

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銀閣寺山門前の石畳。全ての石がホルンフェルスです

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よく見ると白い模様がついているものがあります。これは菫青石(きんせいせき)の不完全結晶でできた模様です

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いろんな形がありますね

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菫青石の完全な形は六角柱状結晶で、その断面が花びらのように見えることから桜石とも呼ばれています

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銀閣寺の山門を左折して大文字山に向かいます

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八神社の鳥居を右折してこの看板の矢印の方に進むと

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登山道の入り口です

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川沿いの道を進みます

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途中の水飲み場

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かなりつめたい

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ここから登っていきます

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風化した花崗岩質で足場が悪いです

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この辺りも花崗岩地帯

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整備がされていて歩きやすいです

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開けた場所に来ました

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岩がゴツゴツむき出しています。これはチャートですね。

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地層は細かい石がびっしり。

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千人塚です。戦時中に軍がこの辺りを掘ると応仁の乱の頃の戦死者のものと思われる人骨が多数出土したことから、その供養のために石碑が建てられたそうです

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硬い堆積岩が散らばりゴツゴツしています

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このあたりは花崗岩が風化してマサ化してます

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真っ直ぐな階段が現れました

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階段を登ると平坦な尾根道です。コンクリートの下にはゴツゴツした石がむきだしています

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ふたたび階段

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途中の眺望

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到着。大文字火床です

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京都盆地が一望できる京都で一番だと思っている眺望

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大師堂。弘法大師が祀られています

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正面の高い山は愛宕山

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中央奥が御所、手前が吉田山、左手前が金戒光明寺

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大文字の最上部

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ここからさらに大文字山に向かいます

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ゴツゴツした堆積岩の坂道を登ると

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尾根道になります

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このまま進んでいくと

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黒っぽい硬い石が現れました

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ホルンフェルスでしょう

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上部にぶつぶつがある

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堅そうで角が丸い

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これはブツブツがはっきりしてますね。ホルンフェルス にできた菫青石が風化して粒があった部分に窪みができたのでしょうか。

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これは銀閣寺の山門前で見たホルンフェルス の模様とよく似ていますね

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これもホルンフェルスと思われる岩ですが落書きが。硬いのによく刻んだなぁ。1953.2.16かな?

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明らかに他とは違う岩

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よく見るとシマシマです。層状チャートでしょう。チャートが熱による変成を受けると珪岩になりますのでそれかもしれません

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大文字山の山頂です

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見晴らし最高。

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正面が東山、右が京都盆地、左が山科盆地

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大文字山の三角点です

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風が心地よい

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これはなんでしょう?

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菱形基線測点だそうです

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さて、もどりましょうか

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雨水が侵食し雨裂

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石英の脈。チャートかな?

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再び火床

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ちなみに比叡山はこちらに見えます

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千人塚のところに若い鹿がいました

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帰りは法然寺方面へ

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ここを抜けます

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このような坂道

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この辺りにもホルンフェルスが転がっています

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はっきりと模様がついたホルンフェルス

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防鹿柵。京都は鹿の被害が多いようです。

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これも菫青石なのだろうか?

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ということで法然寺に下りてきました。

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こちらも石畳が素敵です。

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チャートが多く使われていますが、ホルンフェルス も利用されています。

さて、
今回は菫青石をたくさん見てきたので、京都でもっとも有名な場所に行くことにしました。

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亀岡市の桜天満宮へ

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こちらは積善寺。

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同じ敷地に桜天満宮があります

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桜石が産出することで有名な場所です。裏山にその産出する場所があるのですが立ち入り禁止です。ただし境内で見つけることができるというのですが、以前来たときはまったく見つけることができませんでした。

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お寺の境内をうろうろしてるとホルンフェルスっぽい石を発見。

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で、見つけましたよ。桜石。なんかキラキラしてました。ここの結晶は美しい形をしています。

(追記)
後日、桜天満宮の近くの場所で探しにいくといくつか見つけることができました。
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中央のあるのが桜石です。

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こちらも中央に。厚みがあることがわかるでしょうか。桜天満宮の境内にある桜石はこのように岩から抜けた粒の状態であるようです。

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神社の近くで桜石を含んだ泥岩が落ちている場所を見つけました。小ぶりのものは花びらが6枚見えますね。





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